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ナイロビ沼の女主の話 
(青春編  リバーハウス物語)
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バケツをひっくり返したような激しいスコールに見舞われたジョモケニ ヤッタ空港に到着した私は、バックパッカーにとって東アフリカで一番 有名なイクバルホテルに直行した。

イクバルホテルは、1階のグランドフロア−がケニア人相手の大きな食 堂、2階から上が安宿屋になっていた。かび臭く雨漏りする階段を上が り、ハンモックのようにスプリングが馬鹿になっているベッドに腰をおろ して、『これが、ガイドブックに載っているかの有名なホテルの姿か』と 自分の判断の甘さを嘆きつつも、耳をつんざくような快調なテンポの音 楽がいやがおうでもアフリカにいるという存在感をもたらした。

ボケ−っと天井のしみを眺めて横になっていると日本人が顔を出した。 「みんなで夕飯たべませんか」『どうしてここで初めて声を交わす人が 日本人なの!!』。ホイホイとその誘いにのり後をついていくと、大通り に面したベランダ付きの部屋に長期旅行者風情の男性が車座になっ て夕食兼酒盛りをしていた。

このホテルの経営者はイスラム教徒であるため表向きホテル内での飲 酒は禁じられているが、この部屋だけは例外のようで空のビールビン はゴロゴロ、旅行者というより住みついているという表現の方がぴったり だ。

計画なしのアフリカであったが、ここを基盤に自分がケニアの近隣諸国 を観光サファリでなく市民レベルで旅すること、1982年8月のクーデタ ー未遂事件の時に、果敢な夜のお姉ちゃんたちからこのベランダを介 して盗品の食料配布を受けるとは想像もできなかった。

その後、イクバルホテルは老朽化で改築することになり半住民化して いた日本人旅行者は追い出される羽目になった。イクバルホテルの一 室には、日常生活をしていく上での最低限のものが揃っており、本、家 財道具をもって他に移動するのは至難の技であったが、夜のお姉ちゃ んたちがまたがんばった。

安く、ボヘミアンのような生活者に理解を示せる家主(実態は金払いが よければ素性は問わずの家主)の情報をもってきては、移動先を一緒 に探してくれた。そして最終的にベランダの魅力から泥棒横丁とも言わ れているKilinyaga RoadとKilimo Roadが交わるリバーハウスとなった。

リバーハウスは12部屋しかない小さな木賃宿であったがその内の3部 屋を日本人旅行者のドミトリーとして常時借りることにし、1983年から1 990年代初めまで自主運営された。このビルは、今も現存しているが 、2001年内装工事が行われ、当時の日本人旅行者の面影を残してい た2階の窓の『Dunlop』のステッカーも取り外された。

【魔性の街ナイロビ】

精力的に旅をして来た者を何故か半住民にしてしまう不思議な魔力を 持った街ナイロビ。

当時は、日本から直接ナイロビに入る旅行者はまれで、北アフリカから 来た旅人は、アラブ世界の人間関係に疲れ、西アフリカから来た旅人 は、自然の過酷さに疲れ果ててみなナイロビに到達する。気候のよさ とりわけナイロビにはマラリアがないという安心感もある。治安状態も今 ほど悪くはなくのんびりとした底抜けの明るさにみなどっぷりと浸ってし まう。さらに、ソマリア、エチオピア系の姉ちゃんは、きれいだし〜。あ んまり垢抜けしていないけど、キクユの姉ちゃんもがんばっている。

最低限の身の回りの注意だけしていれば人にだまされる事もなく、自 分の責任の範囲で自由に動ける街ナイロビ。南部アフリカへ旅立つ前 のエネルギーを蓄える目的だけで立ち寄った旅人もついつい長居をし てしまい、ついにはアフリカ大陸旅行の分岐点であるナイロビで旅を することをも忘れてしまう。

魔性の街ナイロビをバックグランドとするリバーハウスは、様々な若者 の人間模様を干渉することなく、ナイロビの街にごく自然な形で日本人 旅行者を吸収させた。夜の商売をしていたお姉ちゃん・おばちゃん達 と日本人旅行者がお互いの生活様式を壊すことなく生活空間を共有し 、日本−ケニアのリバー住民コミュニティーを創り出していた。

【暗黙の了解】

一日10ドルの生活がリバー住民の共通のステイタスであり、旅のスタイ ルを互いに干渉しない事が暗黙の了解。朝8時朝食、夜7時夕食。何 故か規則正しく誰かしらが食事の準備をして毎回10名以上の旅人が 一つのテーブルを囲む。旅行資金稼ぎのためにレストランでのアルバ イト経験者が多いせいか旅の長さに比例するかのようにみな料理上手 だ。

夕飯作りは、朝10時くらいからの買出しから始まる。歩いて10分位の 所にガラマ−ケットという青空市場があり、そこで値切り合戦を延々と やって食材を用意する。ひき肉料理はおいしいが、そのひき肉を作る ために、硬い牛肉をトントコトントコみんなで刻む。まな板の木屑も混じ った美味なひき肉料理の誕生となる。

米は、丹念に石とり、ごみとりをして、ケロシンランプでたく。念をいれ てやった米掃除も時々ガリッといやな感触が口の中を走る。野菜炒め とご飯という夕飯が一週間続いても誰も文句は言わない。でも、自然と コック長交代となる。テーブルに付く顔ぶれは頻繁に変る。旅に出て ナイロビにいない人もいるが、多くはブラッと街に出てそのまま外泊を してしまった連中だ。翌日の昼ごろヌーと帰ってくる。だれも詮索はし ない。昨日と同じようにリバーの住民にもどる。

【子供を救った山男パワー】

朝から晩まで読書に専念しても2,3ケ月では読みきれないほどの本が 置いてあった部屋は、居間兼炊事場兼寝室。手紙を書いたり、本を読 んだり、雑談をしたりと情報交換の場でもある。

そんな日の午後「ドスン」と鈍い音がした。驚いて窓から首を出して見 下ろすと、通行人がみな上を見ている。「子供がおちた!」下からは、「 ジュ−ジュ−*」と人が騒いでいる。斜め上をみれば、もう一人5歳位 の女の子が手すりにつかまり宙ぶらりんの状態であった。ケニアの窓は 、ガラス戸に泥棒よけのグリルがついているので、大人の体ではそう簡 単には身を乗り出せない。

子供は恐怖心と疲労とで自力ではそれ以上何もできず、急いでその 部屋に行ったが部屋には鍵がかかっていて入れない。リバー住民に は山登りの名人が多く、山の道具は一応揃っていたがロープを支える ものが屋上にはなく、人力でロープを押さえ、一人が上からおりて、窓 枠から身を乗り出した小柄な山男にその子を渡すという人力作戦を行 うことにした。思考錯誤に時間がかかり、うおさおしている我々に対して ケニア人は高みの見物である。こうゆう時のケニア人は全くふがいない 。

いざ我こそはという江戸っ子気質は全く皆無であり、他力本願というか 自然の運命にまかせるような動きが見られる。いざ救出作戦を決行す るとスムーズに事が運び、ロッククライミング(上から降りるのだからクラ イミングではないのだが)のごとく、壁を下りていった山男の片手の中 に女の子がおさめられ、窓枠から身を乗り出していた別の山男の胸に 女の子が乗せられた。

女の子は胸を滑り台のような形にして我々の部屋に滑り落ちてきた。屋 上組は、助かったと思うと何だか力が入らず、山男の顔がなかなか見 えてこない。「お前ら力入れてたのかよ。危うく俺が落ちるかと思ったよ 」と笑いながら文句を言われても「よかった。よかった。それにしても手 がイテ−」。

翌日の現地新聞『Nation』の一面に大きく写真入りでこの救出模様が 掲載され、興奮冷め遣らず皆で新聞を覗きこんだ。あの黒山の人だか りの中にちゃっかり写真をとっていたカメラマンのおかげで屋上組は、 初めて救出の様子がわかった。ということは結構時間がかかったという 事か。我々の救出作戦が失敗していたらと思うとゾーっと背筋が寒くな った。

ロッククライミングのパフォーマンスを見せてくれた山男は、その一年 後南米のアコンカグアで、高山病のため命を落とした。彼の遺体は、 滑り台役を演じた山男の手でアコンカグアのクレバスに埋葬されている 。

* ジュ−:スワヒリ語で『上』の意味


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