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2001年3月 婦人たちの厳しい人生誌
(和訳)
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No. 2 Mrs. Clara Ondego (Secretary)

クララ・オンデゴ(秘書)

私、クララ・オンデゴは1963年6月17日の夜明にニャホンドミッション病 院で生まれ、アニャンゴと言う苗字を名付けられました(ルオー族は苗 字が無く、生まれた時間によって苗字が決まります)。私は男4人、女3 人の7人兄弟の4番目です。

5歳の時ニャボンド女子小学校の幼稚部に入園しました。当時私のお 母さんは体が不自由な子供達の為にニャボンドホームで働き、お父さ んは失業していました。お母さんが生活の糧を稼いでいました。

1971年に同小学校の1年生になりましたが、この年は私にとって最悪 の年でした。私の愛すべきお父さんが亡くなったのです。お父さんは 月曜日の朝に入院先のニャボンドミッション病院で亡くなりました。あと にお母さんと私達が残りました。

私達のお母さんは最低必要なものを得る為に必死で働いていました。 1977年私は小学校の最終試験に合格し、アヘロ女子中学校に入学し ました。でも私は学費を払う事が出来ません。私のお姉さんは修道女 の援助でニャボンド看護学校に入学していました。彼女は私が最終試 験に合格した年に、良い成績で試験に合格しました。お姉さんはミゴリ 地区のオムボ地区病院に勤めました。お姉さんは私が寄宿舎付のカ ディカ女子中学校に行く為に出来る限りの事をしてくれました。1978年 に女子中学校に進学すると、私はスクールキャプテンに選ばれました 。というのも私はネットボールの優秀な選手だったからです。

1979年私は寮長に選ばれ、3年生の時には副会長、そして4年生にな ると生徒会長に選ばれました。私の成績は平均より上でした。私の性 格から私は学校中に友達がいました。彼女達は私のことを"生まれな がらのリーダー"と呼びました。4年生の時、私は病気になりオムボ地区 病院に入院しました。私の成績は落ちてしまいましたが、1981年の最 終試験にはその地方で4番目の結果を出しました。

私の人生は難しくなり、結婚したら全ての問題が精算されると思いまし た。1982年現在ベースキャンプのある所のすぐ横で私は結婚しました 。新婚時代に男の子を授かり、人生が上手く行くように思えました。そ の後、私はまるで鶏が卵を生むように次々と子供を生み、私の人生は 又難しくなってしまいました。私は家族の中にストレスを抱き、人生に何 の希望も見出せませんでした。

何年も神様に心を向けていました。ついに神様は私の手を取ってくれ ました。私の夫は私が商業学校へ行く事を許してくれ、私は2番目の子 が生まれるとミゴリにある聖ポール商業専門学校へ入学しました。現在 、この2番目の子はツルディブオロ中学校の3年生で学校一のネットボ ール選手として活躍しています。1986年にはタイプ、実用事務、商業 英語に合格し専門学校を終え、3番目の子を産みました。

物事は私の思うようには行かず、人生は更に難しくなり、ストレスが溜ま りました。私はどんな仕事でも良いから仕事を探しましたがダメでした。 。私はわずかばかりの収入を得るために日銭稼ぎをしましたし、古着の 売買もしましたが、どれも同じでした。利益と損失。今アオモ小学校の4 年生になっている5番目の子を産んだのも、こんな1994年のことでした 。

ある日、私が畑を掘り起こしていると、ツルディブオロ中学校でタイピス トを捜していると使いの人が来て言いました。早速、私は学校へ行き面 接を受け学校運営委員会で採用されましたが給料はほんの僅かでし た。学校の給与だけでは子供達が最低限必要としているものを揃える のに不足でした。私は幾人かの友人とメリー・ゴー・ラウンド(日本にお ける頼母子講のようなもの)の為の婦人会を発足しました。

最初の話し合いをオコト・サビナ婦人の家で開き、物事は好転しはじめ ました。会の運営委員が選ばれ、グループはヘラ婦人会と名付けられ ました。なんて素晴らしい事でしょう!私はグループの秘書に選ばれ、 会長のアガ婦人とそしてグループのメンバーと共に手を取り合って働 きました。会の規則も目標(まだ達成していませんが)も決めました。

ある日アガ婦人の家で会議を開いていると、メンバーの一人が日本工 営を尋ね、彼らから何か助けを得られるか尋ねてみようと言い出しまし た。協議の結果、私ともう二人が迫田氏と会うことに決まりました。

幾日か経ち、ソンドゥミリウ水力発電プロジェクトの迫田氏に会う為、私 達は日本工営の事務所を尋ねました。まず始めに迫田氏の秘書であ るマダム・サラに会い、彼女は本当に私たちを温かく迎えてくれました 。

迫田氏が呼ばれ、幾つかの協議の後、ついに前進しました。迫田氏は 彼の友人と共に私達にフィードバックしてくれる事を約束してくれまし た。

2001年私達は神による奇跡を見ました。ヘラ婦人会は迫田氏からの 手紙を受け取り、手紙によると2001年6月16日に迫田氏と施工業者の 鴻池組JVの柳田氏所長が、ソンドゥ・ミリウ図書館を開設するとのこと でした。

上手く言えませんが、図書館は開館した時から全くうまく行っていまし た。何か良い事には必ず、長所と短所があります。私達は日当として1 00シルを迫田氏から貰っています。これはプロジェクトのお金ではなく 迫田氏自身が払ってくれています。図書館は祝日を除いた毎日2時か ら6時迄開いています。

私個人にも、図書館は大きな成果を与えてくれています。私の子供達 は図書館でテキストを読む事によって成績がずっと上がりました。迫田 氏が私達を英国文化交流所(British Council)やケニヤの国立図書 館がキスムでどのように運営されているかを見るためのツアーを組んで くれ、それは成果がありました。唯、私には図書館運営をもっと完璧な ものにする為の知識が必要です。私は誰かが私のスポンサーになって くれたらと思っています。

私は今ケニア全土の成果を上げている図書館を数えています。ニャン ザで3番目、ニャンドでは始めての公共図書館です。ツルディブオロ中 学校、アンディンゴ・オパンガ中学校、アボワオ中学校の多くの生徒た ちが定期的に本を読む事によって2001年のKCSE(Kenya Certificate Secondary Education:ケニア政府により実施されている全国規模の高校卒業証 明の為のテスト、地区・州・全土での個人、学校別の上位順位が新聞 発表される)ですばらしい結果を出し、幾人かの生徒は大学へ進学す る事が出来ました。図書館の日誌の来館記録がはそれを示しています 。又、多くの生徒が学校や家庭で買い与える事が出来ない本を図書 館で読むことにより、中学校へ進学できています。

日本とケニアの友好、私達のコミュニテチィーを広げる為に本を寄付し てくださった方々本当に有難うございます。

住民に代わり、迫田、岡村、石黒、遠藤、松下、黒田さん、日本人学 校、教育委員会、クサ地区開発事業団、日本工営、そしてこの図書館 の援助者の皆さんに感謝します。
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