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ナイロビ沼の女主の話 
(ケニアの遠い夜明け)
2002年12月30日、ケニア国は24年間続いたモイ政権が終焉を迎え、 キバキ氏がケニア国第3代目の大統領に就任した。キバキ氏は、197 8年のモイ政権誕生時から1992年に多党制が導入されるまで、ケニア 国の財務大臣、副大統領職の要職についていた人物である。ケニア は多党制を導入して10年、独立から40年の長い道のりをへて与野党 の政権交代が初めて樹立しました。

1986年、日本でも「遠い夜明け」という題名で南アフリカ共和国(以下 、南アと略す)のアパルトヘイト政策に抗議するデモ隊と治安部隊の衝 突の映画が事実に基づくストーリーで一般上映された。日本でどのよ うな反響があったか知るすべもないが、ケニアでは他人事ではないと いう一般市民の高揚があった。

上映初日目の切符を私は運良く購入でき、夜8時上映開始であったに も係らず、早めに7時行くとすでに多くの観客が館内で上映時間を待っ ていた。実写を交えたストーリーであったこともあり、デモ隊と治安部 隊の衝突には興奮の渦に、実在の人物ピコの悲惨な死に涙し、強制 逮捕のシーンではわれんばかりのブーイングと、いがやおうでも南ア の実情とケニア国内の言論の統制が合い重なって焼きつけられた。

権力が力ずくでデモ隊を獣の撃つかのように発砲し、殺害していく目 を覆いたくなるようなシーンの連続で、例え、南アの白人が有能な入 植者であっても許される行為ではない、植民地政権の横暴に怒りが込 み上げた。しかしながら、世界に紹介される報道は、真の姿は完全に 隠蔽され、すばらしい国家づくりの典型のような形で世界の人々に伝 達される。報道のもつ表面だけの世界と現実のギャップを埋めるもの が見出せないジレンマが館内の怒りとも思えた。ブラックアフリカンの 同胞よ、立ち上がれと奮い立たせる思いとは裏腹に、この映画が上 映された時代は、まだまだ民主主義とはかけ離れた独裁政治色の強 いアフリカ諸国であった。

この時代、ケニアを含む多くのアフリカ諸国は南アフリカ共和国と国交 がなかった。1960年代多くのアフリカ諸国が独立を勝ち取ったのにも 係らず、南アフリカは白人政権が継続していたからである。また、白人 から黒人への、黒人同士の身分差別が激しく、ブラックアフリカ諸国 は国交断絶という形でアパルトヘイト政策に対抗した。ケニア入国時 に南アのイミグレーションの版がパスポートに押されていると外国人と も言えども、イミグレーションを通過できず、そのまま他国へ出国しなく てはならなかった。南アのスタンプだけはかなり厳しい追及があり、ま た、南ア政府もそれを充分承知しおり、パスポートではなく、ノートとか の紙切れで代行してくれた。

この映画の上映の影響もあり、南アの黒人開放運動家のマンデラ氏 が20数年の投獄生活から翌年開放された。ナイロビでは、この模様 が同時中継され、数少ないテレビの前でみな歓声を上げたものである 。マンデラ政権が誕生するとケニア政府は国交断絶を撤廃し、現在は ケニア−南アへの航空便は毎日4便が就航しており、邦語のビジネス が最も盛んな国際関係を形成している。

1980年前半までタンザニアは中国型、エチオピアはロシア側の社会 主義国、ウガンダは軍政であったため、ウガンダ国境の一部を除いて 全ての国境は閉鎖しており、空路でしか隣国に行くことが出来なかっ た。ケニアは、資本主義国とりわけ米国の牙城として、米国海軍、英 国陸軍が常駐していたこともあり、近隣諸国に比して経済的にはかな り好景気であった。ナイロビの街は常に美しく君臨し、街を歩く人は多 種多様で、東京より外国人の比率は高いように思えた。

高級車には外人と称される人しか乗っておらず、町のタクシーは、乗 客が車を押してスタートさせなければエンジンがかからない、ドアがし っかり閉まらない事は常であった。勿論、座席はボロボロ状態である 。しかし、近隣諸国から思えばはるかに繁栄していた。ナイロビには、 近隣諸国からの亡命者、難民がどんどん押し寄せていた。そして、そ の繁栄をかさに独立国家といえども独裁政治が確立され、インド人が 経済界を牛耳る体制が確立されていった。

ケニアは、1982年8月1日早朝にクーデター未遂事件が発生している 。空軍の奇襲に大統領官邸、ケニア放送局、ジョモケニヤッタ国際空 港が占拠され、初日目は、完全に政府転覆状態であった。3日後に政 府側が空軍の一部反乱分子を制圧したから歴史的には未遂となって いるが、この時、ナイロビ市街戦のあと、鎮圧部隊と称する軍隊のタ ーゲットとなった民間人は抑圧した白人でなく、インド系、パキスタン系 の人々であった。独立後、大多数のケニア人は、インド人系商店、企 業で安い賃金で牛馬のごとくこき使われ、白人にとってかわった身近 な支配者への不満を家宅進入、窃盗そして強姦という行為で鬱憤を 晴らしたとも言える。

言論にはかなり厳しい統制が敷かれていた時代であり、政府批判は 御法度。政治集会主催者は即投獄され、政治犯として過酷な牢獄生 活を余儀なくされた。ケニアだけでなくアフリカ大陸は、ストライキ及び デモンストレーション、投石闘争は日常茶飯事で、とりわけ大学生を中 心にした学生運動は激しいものがあり、全ての政治活動は、大学から といってよく、常に大学生が先陣をきっていた。ナイロビ大学を中心と して、国家権力の介入が鮮明になり、多くの講師、教授が国外脱出を していった。ケニアが生んだ小説家グギ・ワジンゴが英国に追放され たことは、とりわけケニア文学界に大きな打撃を与えた。まさかと思っ たが、盗聴という手段も警察当局は公然と行っていた。

1990年、多党制による選挙が1992年に実施されることが明確になる と政府側の横暴な権力行使が一段と激しくなった。1990年前後、政府 転覆を企てたとして建設省大臣が外遊からの帰国した空港で入国拒 否、外務大臣の暗殺、部族闘争を故意的に誘発、公金流用等権力を 傘にかけた独裁政治的行為を公然と推し進めていった。植民地政策 のなごりか20名以上の集会、個人的なハランべーでさえも警察に届け 入れをし、その集会許可取得が徹底された。

警察の許可がなければ全て違法集会であり、警察が介入しても何ら 抵抗は出来ない。連日、学生を中心とした街頭闘争が行われ、モイ大 統領車両が急遽迂回をして大統領官邸に向かうという事態がたびた び起きた。大学生及び専門学校の生徒は全員寄宿制度となっており 、寄宿舎近辺は学生の無風状態におちいった。学生の収拾がつかな くなると、大学当局は学校閉鎖をアナンスして、学生を寄宿舎から追 放した(大学が休暇及び閉鎖される時は、寄宿舎も閉鎖となる)。

だいたいそのアナンスはお昼ごろ行われることが多く、猶予時間は2 時間で、その日は郷里へ戻るお金のない学生が大きな荷物をもって ナイロビの街をうおさおしている光景がよく見られた。1980年代と199 0年代の学生闘争の内容は違っているが、1年の半分は大学が閉鎖さ れていたように記憶している。労働者階級のみのデモンストレーション は大丈夫だが学生が街頭に出たら要注意という私だけの常識が出来 てしまった。

デモクラシーという言葉が今回の選挙期間中、与野党とも好んでよく つかわれた。ようやく超党派野党政権がケニアにも誕生し、与党側で あったKanu党が第一野党として、まさにシンメトリナーな国会を形成し 始めた。少しづつではあるが、庶民の声を聞こうとする政治家の姿勢 として、大統領をはじめとする大臣クラスがエステイトと呼ばれるケニ ア人中・低級者住居地を訪問している。モイ前政権では見られなかっ た姿である。

これをもってデモクラシーとはいえないが、顔のみえる政治・手の届き そうな所の政治をもってクリーン政治を目指しているかのようです。し かしながら、国会議員を含め多くのケニア人は、部族が第一でケニア 人としてものが語れない。本質的な所で、部族意識を変革しない限り 、ケニアの発展は望めない。真の夜明けはまだまだ遠いようです。