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ナイロビ沼の女主の話 (お受験編)
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(長男の小学校受験) 続き


長男4才の時に、ケニア独自の教育システムが導入されたために、親 の方がどのシステムを選択すべきかお手上げ状態になってしまった。 最終決断までに半年。ケニアシステムは、学費は安いが、スワヒリ語が 必修となる事が大きなネックとなった。

そして、今思えば長男の小学校受験の時が、そのピークの最後の年だ ったように思えるが、まず、ナイロビ市内のケニアシステムの優良公立 校を受験するには、数が限られた受験票をもらうのに徹夜の行列をし なければならず、そんな忍耐が親のほうにない。

日本人学校は、授業料及び子供の言語問題があり除外した。経済的 な事を考えると、残りはイギリスシステムしかない。結局、通学距離が短 いイギリス私立カリキュラムシステムを第一希望校とした。実は、この小 学校はナイロビでも突出した難関校で入学後も非常に高程度の教育 を要求していた事が後でわかったが、幼稚園側は、親の希望を優先 する形で、小学校の基準に合わせた各子供の受験対策が幼稚園側で 検討された。

その結果、予想はしていたが、長男は、希望校に合格するには、英語 の読みが流暢でないということで、その弱点を補うべく幼稚園側が特別 カリキュラムを設定し、長期休暇中にその補修が集中的に行われた。 親は単に休暇中も幼稚園に送り迎えするだけの存在で、まさに幼稚園 と子供が一体となって小学校受験に突っ走っていった感じがある。

イギリスシステムの学校を最終的に3校選び、9月の新学期に備え、同 年2月に受験(1校は幼稚園推薦枠)した。第一希望校は、今の長男の 姿を知っている人なら、全く想像つかないでしょうが、2時間半という試 験時間を費やし、それに挑戦したのです。そして、第一希望校の合格 の報を受けたときは、私たちではなく幼稚園側の歓喜にまたまた驚か された。同じ幼稚園から5名受験して4名合格。定員20名(競争率3〜 4倍)の学校なので幼稚園側にしてみれば上出来だったようである。学 校の名誉を背負って小さい子供たちが試験に臨むという事を実感させ られた。

ちなみに、長女の時は、小学校側から早々と入学試験の案内やら授 業料についての情報を長男を通して知らせてきた。学校関係者と顔を 合わせれば何やら親しげに入学願書は出したかと聞かれた。長男の 時とは雲泥の差である。

(小学校教育)

Secondaryを眼中にいれた学校一丸となっての受験体制がひかれる のがケニアシステムです。ケニアシステムも表向きは土、日は休みです が、6年生になると徐々に全国一斉テストに向けた補修が始まります。 常に上位に名を連ねる私立の学校場合ですが、6年生は、土曜日は 半日、長期休暇中でもその内の2週間は学校に行きます。表向きは自 由選択性ですが、子供の小学校入試よりもっと学校の名誉が浮き彫り となり、半強制的な補修となります。

それが、8年生になると、土、日とも8時から5時まで、長期休暇中もた った1週間の休みがあるだけです。子供も教師も体力を消耗する最終 学年です。家庭教師をつける方もいます(塾はない)が、学校に全面 的に子供を任せます。子供たちの個人的能力には関係なく、子供たち のテスト結果が良ければ、良い教師/学校、悪ければ悪い教師/学校と 判断されるので、教師へのプレシャーも凄まじいものがあります。

とある私立校などは、9月上旬、日本の塾さながらのような試験に向け た決起大会(なんと表現してよいかわからないが)のようなものが開か れ、子供が鉢巻をして「最後までがんばるぞ−」なんて叫んで、なぜか 最後は神に祈る。親子共々その力の入れようは、想像を逸するものが あります。

前述したように、全国一斉テストの結果がPrimary入学の生徒募集に 大きな影響を与えるために、飛び級はありませんが、落第制度はありま す。特に、7、8年生ともなるとそれがシビアになり、全国一斉テスト前の 校内テスト如何で、学校の平均点を上げるためにあえて成績の悪い子 供を全国一斉テストからはずす所もあります。

なぜこのような受験戦争がナイロビで行われているかというと、ケニア の教育環境の格差が大きいために、例えば、電気がある/ない、通学 時間短い/長い、通学条件(家事労働の有無等)等の相違があるため に全国一斉テストの個人点数(900点満点)は、ナイロビの受験生は自 己点数からマイナス50、ケニア北東部の半砂漠地帯地方などの受験 生には自己点数にプラス30と修正されるためと言われております(教 育省は否定していますが、現実はどうも修正しているようです)。

日本のように問題集が普及しているわけでもなく、教科書すら用意でき ない子供もいるので、月曜から金曜までの新聞には、テスト予想問題 が掲載されております。8年生は、日本で言ったら中学2年ですが、新 聞に掲載されている試験問題は、日本の高校生レベルのものもあれば 、小学校高学年レベルのものもあり、年齢に相応した教育が確立され ていないという印象があります。

イギリスシステムの場合は、私立カリキュラムと公立カリキュラムでは若 干授業の内容が違っていますが何しろ授業の進み方が早い。私立シ ステムの学校は、6年もしくは7年生を対象に私立グループ試験が行わ れ、その試験結果をもってSecondaryを選択します。最近は、Primary とSecondaryを併合している学校も増えてきたので、ところてん式にSec ondaryにいけるようにもなってきました。イギリスシステムの大きな節目 は8年生です。

ちなみに、長男が通った小学校は40分授業で、毎日7時間授業であっ た。授業内容は、

小学校1年
英語:幼稚園の継続(毎日3時間位ある)
算数:繰り上がり、繰り下がりの計算、時計の読み方を利用した分数
社会:世界7不思議の旅(非常に細かい)
理科:地球と月(中学生か?)
仏語:挨拶程度
宗教:聖書(親子共々ギブアップ)
音楽、図工、体育(クリケットのみ)

小学校2年
英語:長文読解、文法
算数:掛け算(12 X 12まで)、割り算(小数点まで)、分数、文章題
社会:歴史(何故か古代、第一次世界大戦、第二次世界大戦、ベトナ ム戦争のみ)
理科:宇宙(大学生のレポートのよう)
仏語:簡単な読み書き
宗教、音楽、図工、体育

社会と理科は私に辞書が必要であった。何しろ私の方が単語につい ていけない上に細かすぎて小学校低学年にここまで要求するかという 感じであった。両教科ともテキストブックがないので、授業中はひたす ら黒板に書かれたものを写す。これが、半端な量ではない。子供が写 し間違えてきたときなどは悲惨です。

宗教は、何故か親も子もキリスト以外の聖書に登場する人の名前すら なかなか覚えられない状態だから、その解釈はほとんど濃霧の中にい るような状態であった、学期末には、3日間かけて期末試験(英語が分 散されるので8教科位)があった。もちろんその結果は点数と順位をつ けて親に報告される。長男は、英語と算数は上位グループにいたが、 社会、理科、仏語は中間、宗教に至っては、後ろから数えた方がずっ と早かった。全教科順位はご想像つく事でしょう。

長女小学校入学を控え経済的な事、算数の授業法への不安がありま したが、大きな原因は、努力をするという事からかけ離れている長男の 性格を考えると、学校が求めている授業内容が年相応でなくアンバラ ンスな状態であったため、このシステムに2年間通った後、日本人学校 に転校しました。

アメリカシステムは、比較的おおらかに小学校時代の授業を行ってお ります。短期滞在型の子供たちが多い学校ほどその傾向が強いようで す。

(Secondary)

ナイロビでケニアシステムの教育を受けた子供たちも、Primary全国統 一テストの成績をもって地方の寄宿舎学校に移動します。ナイロビで は生活費、教育費が高いからです。不思議なことに国立のSecondary (州立、県立がある)の方が授業料が高いのです。

Secondaryの殆どの学校が、原則的に寄宿舎生活となります。極一部 の親を除いて、多くの親はこの寄宿舎生活を良しとしています。また、 学校も親から離れて、規則正しい生活がこの年齢の子供に適した方法 という考えです。近年、高くなった授業料の影響で中途退学の例は少 なくないのですが、ナイロビの子供たちだけでなく、このSecondaryを 卒業することは、ケニアでは当たり前の時代となってきました。

イギリスシステムは、大学に標準をあわせたかなり厳しい教育が始まり ます。開講科目が広くなり、その中から自分の好きな教科を選択し、履 修します。Aレベルの成績は、大学の教養課程終了ということを意味し ていますので、文科系などの学部では、3年で大学終了となります。

アメリカシステムは、IBシステムとSATシステムがあります。IBはスイス 憲章のテストで、広く行われている単位取得制システムです。SATは、 アメリカの全国一斉テストです。日本の大学では、IB取得者への門が 広く開かれています。

今宵の一口コラム −走ることをわすれたケニア人−

世界的レベルの中・長距離選手を生んでいるケニア。駅伝やマラソン では日本でもその強さに抜群の適性を見せているケニア。走ることに かけては天下一品の素質を持っていると思うのだが、それが日常生活 には生かされていない。みんなよく歩く。信じられないほどの距離を黙 々と歩く。でも走らない。道を横切る時も、バスが発車寸前の時も、人 を待たせて目と目が合っても走らない。堂々とした風格をみせるために 走ることは不用なものであるかのように。